ほらあなブログ

ちょっと気になることを調べたり考えたりした記録

現・無産階級者の私が「人生をやりすごしたい人こそ本を読めばいい」と思うワケ

特筆すべき大それた肩書もない私がこのエントリにタイトルをつけるにあたって、はじめは自身を「小市民」と称すつもりだった。
「小市民」という自称に生意気にも謙遜したつもりでいたが、よくよく調べてみると私ごときが名乗るにはおこがましいにもほどがある階級であるとわかった。
小市民――プチブル――とは、資本主義社会における中産階級を示す。現代の文脈ではサラリーマンや公務員、自営の商工業者も該当するという。
正規の定職に就いていない私を表すには「無産階級」と言ったほうがふさわしいであろう。

読書で「世界」が見える

このように今自分が生きている世界を認識するには、それを言い表すにふさわしい言葉が必要だ。
さらに、言葉を知るには対話を通して語句とその用法を収集しなければならない。
他人とのコミュニケーションに難がある私は、不足する対話の機会を読書によって補うことにより言葉を収集している。
つまり、読書で世界を見ているというわけだ。

退屈だったり辛かったりする今の状況から逃げ出したいくらいの気分のとき、世界は敵にさえ見えるかもしれない。
「敵を知り己を知れば百戦殆からず(かれをしりおのれをしればひゃくせんあやうからず)」という故事成語のとおり、敵と戦うにはまず敵を知る必要がある。
戦うまでの気概がなく、とりあえず人生をやりすごしたいという人にとっても敵を知ることは戦略のヒントになるはずだ。

本は私にとってそこそこの相棒となってくれた

私は10代の頃、学校も家も自分にとって味方だと思えなかった。
混沌とした自我に溺れそうになっていた思春期、現代文の教科書に載っていた物語だけが現実逃避させてくれた。
それから私は、図書館や書店で本に触れる機会を増やしていった。

当時の私の心の中は、周りと自分を比較しては劣等感を募らせていた。このままではいつか他人に妬みの気持ちをぶつけてしまうのではないかと、不安を覚えるほどだった。
こんなに悩んでしまうなんて自意識過剰なのでは、とも思っていた。

そんな状況の中で、本は私にとってそこそこの相棒となってくれた。

  • 一体何からくる熱意でそんな偉業を達成したのかと思うほどの伝記
  • 産業革命で悲劇的な状況に置かれた女工を哀れんだノンフィクション
  • グロテスクな内観の発露を現代美術を盾に堂々開陳した画集

そんな本たちを読むことで、私は少しずつ自己や世界との距離の保ち方を覚えていったのだ。

「夢も希望もない」無気力から目をそらすために

読書は、人生を諦めたくなるほどの無気力から目をそらすことに役立つ。
周囲の人たちからのプレッシャーや格差社会が見せる現実と向き合うとき、バカ真面目に対峙していては身がもたない。

そんなとき、自分と世界の間にワンクッションおいてくれるのが本だ。
現実世界との折り合いのつけ方は誰も教えてくれないので、それならばいっそのこと本の世界に逃げ込んでしまえばいい。

読書は、いつでも誰に対しても余興を提供してくれる。