ほらあなブログ

ちょっと気になることを調べたり考えたりした記録

プチプチ切り取っては組み立てた児童誌・学習誌の付録の思い出

小さな子どもが読む雑誌で『幼稚園』というのがあるみたいです。2~3年前くらいから、児童誌の付録が話題になってネットニュースで見かけるようになったかなと思います。

ここ数日はヤマザキパンとコラボした付録が大人にウケてる模様。「制限時間内にパンが積み切れなかったら勝手に出発しちゃうよ!」という遊びができる付録のようで、現代社会を遠回しに風刺しているのかなあなんて私はつい深読みしてしまいます。

 

 

児童誌の記憶、たのしい幼稚園派の私とてれびくん派の幼なじみ

私は『たのしい幼稚園』を毎月買ってもらって読んでいた記憶があります。隣に住んでいた幼なじみは『てれびくん』を読んでいました。なんとなくてれびくんは男の子向けの雑誌というイメージがあります。近年だと子どもが読む雑誌でも、男の子向け女の子向けなんて言いきってしまうとよくないのかなあなんて思います。今思うと、子ども向けの雑誌でもいくつか選択肢が用意されていたなんて、恵まれていたんだなあと。大人になるにつれてファッション誌が休刊になっていくのはとても辛かったです。

 

広告だったんだろうけどそんなにいやらしくなかった懸賞ページ

雑誌をひらくとまず懸賞ページが載ってた記憶があります。うーん、でももしかするともう少し学年が上の子ども向けの雑誌の記憶かもしれません。びろっとページを広げると最新のおもちゃがびっしり並んでいて、アンケートハガキかなんかに欲しいプレゼント番号を書いて応募するようになっていたかと思います。そんな迫力のある絵面は他に、クリスマス前のおもちゃ屋のチラシでしか見かけなかったですね。

懸賞方式で新しいおもちゃを見せるって、ある意味すごいんだなあと改めて思います。新商品を宣伝できるけれどそこまでいやらしくない。読者を自然と「欲しいなあ」「当たりたい」って気持ちにさせつつ商品を見せられる仕組みだったんですね。

 

ペーパークラフトなんて言葉がなかったあの頃の組み立て付録

雑誌にはポリ袋に入ったボール紙が挟まっていました。もしかすると袋には入っていなかったかもしれない。ボール紙には表面がカラーで部品が印刷されていて。プチプチ切り取って組み立て、何かしらのおもちゃを作れるようになっていました。ペーパークラフトっていう呼び方はしなかったと思います。それが付録でした。

雑誌の後ろの方には、付録の組み立て方のページがついていたんですよね。でもそれをあえて見ないで作っちゃうんだぞみたいなことを毎月していたような気がします。なんとなく夕食後に父親と作ることが多かったです。山折りとか谷折りとか、数字のついたベロを同じ数字の示された差し込み口に差し込むとか、なんとなくで作っても完成した記憶があります。ああいう付録を毎月企画していた出版社の方はすごいですね。

 

作った後どうしていたか?遊び倒した記憶もなし捨てられて泣いた記憶もなし

そんな紙製の付録が毎月ついてきたわけですが、ボロボロになるまで遊んだだとか、捨てられて大泣きしただとかいう思い出はないです。どうしていたのかなあ、たぶん組み立てて完成したところが喜びのピークだったんだろうなと思います。組み立てて完成させる喜びを繰り返し与えてくれた環境に感謝です。

 

工作あそびがあんなに身近だったのに今やすっかりクリエイティブに憶病になってしまった

教育テレビ(Eテレ)はワクワクさんとゴロリでお馴染み「つくってあそぼ」を放送していました。工作という遊びがすごく身近なものだったんだなあと思います。私の覚えている工作は、新体操のリボンを作ったことです。ワクワクさんとゴロリが教えてくれたのではなくて、おかあさんといっしょの体操のおねえさんが新体操のリボンをくるくる回していて、そこから着想を得ました。セロテープをびろろろろと長く伸ばして、それを2本用意し両面貼り付けて、わりばしの先に繋げました。「無駄使いして!!!」と母親は起こりますよね、そりゃ。それでも何回かセロテープ製の新体操のリボンを作った覚えがあります。無駄にしないように、そりゃあ慎重に両面を貼り合わせました。

子どもの頃って、一見どうでもいいようなものを作る喜びがあってそれだけで幸せでいたんだなあと思います。今は新しくなにかを作るのが怖いしそれを怖いと思っているうちに何も作りたいものが思い浮かばなくなってしまった。材料を揃えても失敗するのがこわいし勿体ない。無駄にしたくない。まだ起こってもいない恐怖に怯えて行動力を失いました。だから、全力で自分の作りたいものを作って発表している人を見ると羨ましくて悔しい気持ちになります。

 

ものすごい達人と自分を比べる暇があったら

ネット社会になり、ものすごい達人がものすごい作品を次々楽しそうに作り周囲から賞賛を受けている様子を目にします。すごいなあと感動したなら感動したで終わらせておけばよろしい。しかしなぜか「自分なんて…」という劣等感にあえて目を向けて、そこで身動きを取れなくなっている私がいます。やらない言い訳をしている方がラクなんだろうと思います。でも感性がどんどんしょぼくなって心が貧しくなっていく。心が貧しくなっていくことはつらいです。そんな中で自分が子どもだった頃を思い出すのです。あの頃の自分の方が今の自分より好きかもしれない。このことに気付いたおかげで、ようやく自分を奮い立たせられます。昔のようにまたできるかもしれないし、もしかしたらできないかもしれない。それでも自分がなにかしら満足いくまで追求することは、きっとできるでしょう。

 

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