ほらあなブログ

ちょっと気になることを調べたり考えたりした記録

TOKYO2020

2021年を振り返ろうと思って、上半期のようにしいたけ占いで振り返りをしようか、それともリライトが進まずとりあえず出したり引っ込めたりしている記事と決着をつけようか、未着手状態のカテゴリー整理宣言だけでもしておこうかいろいろ考えたけれど、ここはやっぱり"TOKYO2020"に触れるのが締めくくりにふさわしいと思うので"TOKYO2020"の話をダラダラやっていきましょう。

 

"TOKYO2020"の話をする前にこのことを白状しておく必要があります。今年のいつ頃気付いたかは忘れました。『東京タラレバ娘』を読み直しているとなぜか8巻だけが忽然と姿を消していて、二軍図書を封印したままの段ボール内を捜索したり、「仮置き場(2)_コピー_最新版_保留.本棚」と化したラックの発掘を試みたりしましたが、一向に見つかりませんでした。

引越しか何かの拍子にうっかり手放してしまったのだろうという結論に至ればいいものを、往生際が悪い私は欠落した8巻のことをなんとなく忘れきれずにいたのでした。

 

東京タラレバ娘』には東京オリンピックの念がこもっています。2020年東京オリンピック開催が決定した頃、このストーリーは開幕します。1964年東京オリンピックの頃に建てられたというマンションや橋が出てきます。そんな東京の風景の中で果たしてオリンピックまでに私たちは結婚できるのかという、婚活要素の皮をかぶったサバイバルストーリーです。

「○○したら、○○という気持ちになれれば(まだ現れてもいない)いい男と結婚できる」と盛り上がるタラレバ会議。永遠にタラレバ話ばかりしていられないのはもっともなのですが、タラレバ話で笑い合えるというのはとっても大事なことです。

私はどうやらタラレバで済む話を「○○までに○○せねばならぬ」というネバナラヌ話に自動変換しているふしがあるようで、恋愛に限らず多くの場面で自爆を繰り返してきました。おそらく他人からするとこう見えてるのかもなあというイメージで書きましたが、実際のところ本人にとってはもう少しマイルドな体感です。

「なんとなくいつ頃までにこんな感じに仕上がってると理想なんだけど」という呪縛に知らず知らずに飲み込まれているといえばいいでしょうか。やがてコントロール不能に陥り、そして自爆に至るというわけです。異様にのめり込むこともあれば、範囲をむやみに拡大することもあり、そればかりだけでなく些細なことで投げ出すこともあります。自己認識と実際に激しい乖離があるのかもしれないし、むしろその間を埋めるスモールステップの信じられないところで足を踏み外しジタバタしているのかもしれません。

 

私のネバナラヌ話と行方不明になった8巻のことはひとまず置いておいて、リターンズという番外編まで一気読みしました。リターンズからは東京オリンピックの気配がしないのですが、タラレバ娘たちの後日談が描かれています。

後日談まで読んでみて、ちょっとだけ泣けて、たったそれだけの体の反応だったのですが私は驚きました。フィクションでまた泣けるようになったという僅かな手ごたえを感じたからです。

タラレバを読み直してからしばらく経った頃テレビで絵心ない芸人をやっていて、絵の味わいがツボに入りすぎて笑いこんでしまい、卒倒しかけたことがありました。本当に倒れてしまうのだけは勘弁してくれと思いましたが、バラエティー番組で笑えたことも体の反応が観察できたことも私にとって大きな収穫でした。

 

そのうちテレビでは堂々と"TOKYO2020"をやりだしました。変な人と笑われても構いません。私はこれに感激しました。2021年に"TOKYO2020"をやっている。斜に構えた眺め方ではありますが、私が東京オリンピックから得たものは、2021年に"TOKYO2020"をやりきるその心意気でした。

 

「そんなのアリなのか」と唖然とする間もなければ、2021年に開催する"TOKYO2020"にツッコミを入れる人も私の周囲にはありませんでした。

それでも私は周囲からの遅れや孤独などをあまり感じませんでした。なぜなら、2021年に"TOKYO2020"をやれることがわかったからです。1年遅れでも周回遅れでも"TOKYO2020"をやれる。そこ2021年に"TOKYO2020"がある、ただそれだけのことなのだとわかったのです。

 

秋がきて冬になり大量の雪と格闘する日々を過ごす中で、ふいに人間の無力さに襲われ、私は笑えてきて仕方がありませんでした。春になれば跡形もなくなる雪を毎日毎日必死に押したり集めたりする人間の営みに、どうしようもない愛おしさを感じたからです。そこに参加している自分を受け入れるまでにはまだ時間がかかりそうですが、手を動かし続けてさえいれば、いつの間にか丁度いい地点に辿り着いているのだろうと思います。

 

2021年に"TOKYO2020"をやった話に執着し、それを世間に伝え、それでもやっぱりまだ2021年に"TOKYO2020"をやった話を繰り返すためには、人間の営みにせめて半身だけでも浸かり感謝を言葉にしていきたいです。

感謝が波紋となり広がっていくことで、過去に恨んだり許せなかったりした人まで届いてほしいと、そういう捉え方でしか今は世界を理解できないけれど、「情けは人のためならず」という言葉の奥に広がっているものを実際に見ていきたいです。

 

ありがとう。