ほらあなブログ

ちょっと気になることを調べたり考えたりした記録

小川洋子「中国野菜の育て方」小説感想

小川洋子の短編小説集『まぶた』をちょこちょこと読み進めています。

まぶた(新潮文庫)

ぺちゃくちゃとあらすじと感想を寄り道しながら綴った文章を先日投稿しました。

horaanablog.hatenablog.com

 

続く2作目として収録されているのが「中国野菜の育て方」。

 

あるとき事象Aと事象Bという出来事が起こったとします。ひとつひとつの事象は独立していて関係ないはずなのに、無意識に関連付けて捉えてしまうことはありませんか?

"そのように関連付けて一種のストーリーを生成することで、かえってトータルの不安感が増してしまう"

という現象を、外から観察するのにうってつけの題材だと思いました。

 

小説を読んで陰謀論に対する免疫をつけよう!

独立した事象同士をむやみに関連付けてしまう例ですが、近頃の話題でいうならお気付きの通り「陰謀論」です。

アメリカ大統領選、パンデミック生活様式の変容、医療の発達、政治経済の動き・・・

勿論、政治経済は世の中の様々な事象を飲みこんで動いているので、事象同士に全く関係がないわけではありません。

 

しかし陰謀論に即して世界を捉えることを試みると、「え?そことそこを繋げちゃうの?」というように斬新な回路の繋げ方がなされていることに気付きます。

conspiracy theory(陰謀論)を図で示すとピンクのユニコーンが出現していることに笑いましたが、渦中にいるとピンクのユニコーンの呪縛から簡単には逃れられないようです。

 

「親(あるいは妻や夫)が陰謀論者になってしまいました」

というTwitterアカウントも見かけるようになりました。生活に支障をきたす段階まで陰謀論にのめり込んでしまい家庭問題まで発展してしまったというのです。

 

私の陰謀論に対する立場としては、エンターテイメントの域を出ない陰謀論や、逆にガチガチの研究としての陰謀論であれば、楽しんだり味わったり果てしなく追及してもいいのではないかと思っています。

問題となるのは、自己でコントロールできない状態になるまで陰謀論に振り回されたり、周囲との関係が悪化したりしてしまったその後です。

 

ちなみに私はどちらかというと陰謀論者寄りのふしがある方といえます。リアルでは陰謀論関係の話をしない、ネットでも発信行動はとらずに興味深いツイートやブログ記事を見るだけ。だけど心の奥底では陰謀論とされているものがもしかしたら現実かもしれないという疑いを捨てきれない状態です。

隠れ陰謀論者として潜伏しているタイプですが、こういうタイプこそなにかの拍子に過激化する恐れがあります。ある意味では危険要注意観察対象人物かもしれません・・・

 

カレンダーにある見知らぬ印と中国の珍しい野菜の種とわたし

ある朝、寝室のカレンダーをめくると「わたし」は覚えがない丸印を見つけます。黒いサインペンで丸がしてある十二日は記念日でもないし予定の心当たりもありません。

夫に尋ねても「さあ……」「僕は知らない」。

 

夫は「わたし」に無意識で書いたんじゃないのと返答し、気にすることないよとたしなめます。

 

一方「わたし」は、カレンダーの印に意味があるに違いないという思考からどうしても抜け出せません。

「いいえ。これは無意識に書いたような丸じゃないわ。初めと終わりがきちんとくっついているし、サインペンの太さが一定している。ゆっくり丁寧に書いた丸よ」

コナン君でしょうか。いや、まるで榊マリコさんが乗り移ったかのような、科捜研も真っ青!な鑑定です。

 

しまいに「わたし」は、誰かがこっそり寝室に忍び込んでまでカレンダーの日付を丸で囲んだとまで言い出すのです。

夫は、そこまでして何のために印をつけるのかと「わたし」に尋ねます。「わたし」の思考はすでに不安や疑いの最高潮に達していて、

「人目を盗むくらいだから、よくない印に決まっているわ。何かの警告とか。おまじないとか、呪いとか、……」

 

はい、出ましたー!「よくない印に決まっているわ」!!!

(根拠はないけどとにかく)よくないことが起こるに決まっている!そうであるに違いない!!!

 

「わたし」の優秀だったところは、カレンダーの丸印の日付である十二日エックスデー当日まで、カレンダーが目に入ってもそれを無視するようにした点です。夫婦の話題にのぼることもなかった。

 

し・か・し

 

運命の十二日木曜日(十三日の金曜日のニアミス・・・)。家に見覚えのないおばあさんが尋ねてきます。彼女はパン工場の裏で農業をやっていて、自転車いっぱいに詰め込んだりくくり付けたりして積み込んだ野菜を売りに歩いているといいます。

「わたし」は、野菜は間に合っているからと購入の意思がないことを表明していました。しかし、おばあさんとの色々のやりとりのうちに、どうしてだか野菜を買ってしまうのです。

 

このままこの人を帰すわけにはいかない、という得体のしれない胸騒ぎがしたのだった。たぶん、その日が十二日だったことに関係していたのだと思う。

「わたし」は、こう回想しています。

 

こうしておばあさんから野菜を購入したサービスで受け取ったのが、中国の珍しい野菜の種が混ざっているというビニール袋入りの土。

「わたし」は、おばあさんに言われたとおり日に当たらない方法で中国の野菜を育てはじめます。

 

中国の野菜は大きくなっていくものの、あまりの不気味さから最終的に、「わたし」はおばあさんに再度育て方を訪ねてみることに決めます。

 

陰謀論に陥った人々が俗称や仲間うちだけで通じる言葉を使いだすキッカケとは

「中国野菜の育て方」という短編小説で最もおもしろいと感じた点は、主人公の「わたし」がある時点を境に中国の野菜のことを急に「中国野菜」と呼称し始めるところです。

 

それはもう笑えるくらいの転換であります。

初めて中国の野菜の種がやってきた晩、夫に説明する時点ではまだ「中国の野菜」と呼んでいました。

一週間と少し経ったあたりで、中国の野菜の成長スピードが加速したような描写があります。この時点でも主人公の「わたし」はまだ、「中国の野菜」と呼び、それを「中国の野菜」として認識していることを窺わせます。

 

それが一転して突然「中国野菜」と呼び捨てになる時点が訪れます。

呼び捨てというのもなんだかおかしいですが、私にはイメージとしてしっくりくる言葉が他に見つかりません。

 

その転機はハッキリしています。

ある夜中、「わたし」が何の前触れもなく目を覚ましたとき、部屋のちょっとした異常に気付きます。それは言葉では説明しがたい些細な変化でした。

「微妙なものが神経をざらっと撫でたような」感覚を確かめているうちに、そのような異様な感覚をもたらす正体に「わたし」は気付きます。

 

この小説を読む人には絶対に注目してほしいポイントです。

このブログの文章では魅力を10%も伝えきれていないので、ぜひ原典の小説をあたってそのおもしろさを味わっていただきたいと強く主張しておきます。

 

その、ざらりとした感触の元はすぐに見つかった。水槽の中国野菜だ。

 

日に当たらないように育てるようおばあさんから言われていたため、水槽と蓋を使っていました。その中で成長中の「中国野菜」が違和感の正体だというのです。

 

まるで、犯人はお前だ!!!と言わんばかりの「中国野菜」呼び。

 

厳密に確認すると、このあたりではまだ「中国の野菜」という呼び方も併用されています。

 

月が変わってカレンダーをめくるころにはもう、「中国野菜」呼びですっかり定着です。

 

・・・いえ、厳密に確認すると夫との会話の中ではまだ「中国の野菜」と一応は敬称(?)をつけていました。

ですが、誰にも聞かせることのない「わたし」の心の声、モノローグ部分では「中国野菜」扱いです。

「わたし」と中国の野菜との間に、見えない壁ができてしまったかのようです。

 

このことに、陰謀論者が「ワクチン」のことを「枠」と呼びだす現象との類似性があると感じます。

「枠」・・・どことなくぶっきらぼうで乱暴な響きがあるように思えませんか?

今にも「おい、枠!」とでもいうように、ワクチンを呼び捨てにして粗末に扱い始めそうな雰囲気を感じてならないのです。

 

小説の中で「わたし」は、違和感の正体こそコイツだ!と突き止めた瞬間に「中国野菜」呼びを開始します。

SNS等で見られる「枠」呼びについては、周囲の影響もあるでしょうから一概には言えませんが、コイツは怪しい!という一線を引いたぞという主張であるように受け取れます。

バリアとして線引きをしたぞという表明、敵意を認め宣戦布告したものとしての呼び捨てです。

 

アカウントがBANされることを避ける目的で、隠語として「枠」呼びしている意図もあるでしょう。

しかし、隠しきれていないのになぜ頑なに「枠」「珍頃」などという蔑称を用いるかの理由がここにあります。

陰謀論者とされる人々が「枠」呼びをするのは、対象を敵対視した宣言をすると同時に、見えない壁を築き距離を広げたことの意思表明でもあるのです。

 

見えない壁は、陰謀論者と非陰謀論者の分断にも繋がります。

 

その後談。あんなに気になっていたカレンダーの丸印のその後は?

カレンダーに見知らぬ印を見つけたことがきっかけで始まった物語。

主人公の「わたし」は、

十二日の黒丸と、おばあさんと、中国の野菜の間には、きっと関係があると思うの。

という疑念を捨てきれません。

そのため、夫からそんな野菜捨てたらどうだと促されても手放せず、おばあさんに詳しく尋ねることを選びます。

 

エンディング部分で「わたし」からはすっかりカレンダーの丸のことなど抜け落ちているようです。おばあさんを訪ねてみて彼女にすがりたいと思いながらもどうしようもできず、ただじっとしている「わたし」の姿があります。

 

カレンダーの謎も、おばあさんの謎も、中国の野菜の謎も、なに一つわからないままなのでした。

 

関係ないはずの出来事同士を結び付けて考えているうちに、むくむくと不安や疑いの念が膨張していく一連の流れを追うに興味深いストーリでした。

直接の危害を与えてきたわけではないのに、どことない怪しさから「中国野菜」呼びをするようになる主人公の変化を追うことで、より一層物語としてのおもしろさを味わうことができました。

 

今後、陰謀論に陥りやすいパーソナリティ研究や、陰謀論から解放するアプローチに関する研究が活発になるのではないかと予測します。

そんなとき、この「中国野菜の育て方」という小説が何かの鍵の一つになるのではと思っています。