ほらあなブログ

ちょっと気になることを調べたり考えたりした記録

「論文のデータではなく現実を見ろ」発言ってそんなにおかしかったのかな

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「論文とかそうじゃなくて現実を見て判断しないとダメです」5月2日に放送されたMr.サンデーで橋下さんがそういう発言をしたようだ。その発言についてありゃ酷かったと指摘するツイートがそこそこ拡散され、はてなブックマーク内でもそこそこ話題になっている。いまの日本にロックダウンは必要かどうかというテーマで橋下徹氏・岩田健太郎神戸大学病院感染症内科教授・Z世代論客らが討論を行ったところそのような発言が出たらしい。

 

コメントを見ると橋下さんを叩く声が大きいように感じたけど、私はそっちよりも論文のデータ至上主義みたいなエビデンスが証明されていることが絶対みたいな流れに何となく怖くなってしまった。

 

討論の流れの部分的なところしか確認できなかったけれど、大ざっぱに私が捉えたのはこんな感じだった。

橋下さんは、ロックダウンの前にもうちょっとできることあるんじゃないのか、お願いベースでの感染対策を義務化する手順を踏んで最後の手段に取っておいた方がいいんじゃないのかということを言っていた。

それに対して岩田先生は、ロックダウンは学術研究上効果が証明されているし、ロックダウンだけでコロナをゼロにできるわけではなくいくつか対策を組み合わせることになるかもしれないけど、やらない理由を探すよりやってみた方がいいよねということを言っていた。

 

私は、論文のデータ主義で行くとデータ通りにいかなかった想定外の0.001%だとかほんとの少数派の人が困ったことになるんじゃないかと思う。社会全体として統制をとるにはとりあえず大きなかたまりに働きかけて、こぼれた分はおいおい後から掬っていきましょうという方式が手っ取り早いんだろうなというのもわかる。

人の行動がデータ通りにいくかというとそれは危険な考え方ではないかというのをすごく思う。ロックダウンに関して学術研究上わかったのは、やってみた結果効果が得られた(効果があったと証明された)ということであって、なんべん再現してもその通りいきますよということは誰にもわからないんじゃないだろうかと思う。

「ロックダウンした。すると、効果が有意にみられた」ということは証明できるけど、「効果が有意に生じるようにロックダウンした」というのは成立しないのではないか。私は論理的な考え方が苦手なのでこんな風に考えてしまう。

 

こんなことを思う。障害の定義としてDSM-5でこれこれこのように定められている。つまり定義から外れると障害ではない。ここにスペクトラムとか言い出すようになってからますます訳が分からなくなってきたけど、障害児教育の概論でほんとの入門の初歩の初歩で習ったことを思い出す。

英語を母語としない国では私は障害者ではなかった。だけど英語が公用語の国に行き私は社会生活を送る上で困難が生じた。社会生活を送る上で生じる困難を障害という。だから私もみんなもどの社会で生活するかによって障害者になりうる。

習ったときは、ははぁ~そういうことだよね、そういう認識であるべきだよねとキラキラ希望に満ち溢れた気分になった。

でも実際問題こんな概念があるのはわかるんだけどそれだとうまく運用できないから、とりあえず診断基準をきめますね、その基準にそって社会制度も設計しますねというふうに世の中はまわっている。そんなふうにやっているうちに、概念が見えなくなっていく。

 

基準に該当しない規格外は想定されていなくて困ったことになりがちなので、特に人間の営みに関わる場面ではデータを補助にしつつ野生のカンみたいなのを呼び起こすことも必要ではないかと思う。

物事を決めていくのに足並みを乱すことになるかもしれないけど、「何言ってんだコイツ」と思うようなヤツの発言を深堀することも私は忘れたくない。

政治的な立場が絡んでくると難しいけど、人情みたいなものがあるようなないような期待をついついしてしまう。

この星で学術的に正しいとされていることもどこかの星では非常識かもしれないし、2021年に正しいとされていることも数百年後にはトンデモ論としてこきおろされているかもしれない。