ほらあなブログ

ちょっと気になることを調べたり考えたりした記録

現・無産階級者の私が「人生をやりすごしたい人こそ本を読めばいい」と思うワケ

特筆すべき大それた肩書もない私がこのエントリにタイトルをつけるにあたって、はじめは自身を「小市民」と称すつもりだった。
「小市民」という自称に生意気にも謙遜したつもりでいたが、よくよく調べてみると私ごときが名乗るにはおこがましいにもほどがある階級であるとわかった。
小市民――プチブル――とは、資本主義社会における中産階級を示す。現代の文脈ではサラリーマンや公務員、自営の商工業者も該当するという。
正規の定職に就いていない私を表すには「無産階級」と言ったほうがふさわしいであろう。

読書で「世界」が見える

このように今自分が生きている世界を認識するには、それを言い表すにふさわしい言葉が必要だ。
さらに、言葉を知るには対話を通して語句とその用法を収集しなければならない。
他人とのコミュニケーションに難がある私は、不足する対話の機会を読書によって補うことにより言葉を収集している。
つまり、読書で世界を見ているというわけだ。

退屈だったり辛かったりする今の状況から逃げ出したいくらいの気分のとき、世界は敵にさえ見えるかもしれない。
「敵を知り己を知れば百戦殆からず(かれをしりおのれをしればひゃくせんあやうからず)」という故事成語のとおり、敵と戦うにはまず敵を知る必要がある。
戦うまでの気概がなく、とりあえず人生をやりすごしたいという人にとっても敵を知ることは戦略のヒントになるはずだ。

本は私にとってそこそこの相棒となってくれた

私は10代の頃、学校も家も自分にとって味方だと思えなかった。
混沌とした自我に溺れそうになっていた思春期、現代文の教科書に載っていた物語だけが現実逃避させてくれた。
それから私は、図書館や書店で本に触れる機会を増やしていった。

当時の私の心の中は、周りと自分を比較しては劣等感を募らせていた。このままではいつか他人に妬みの気持ちをぶつけてしまうのではないかと、不安を覚えるほどだった。
こんなに悩んでしまうなんて自意識過剰なのでは、とも思っていた。

そんな状況の中で、本は私にとってそこそこの相棒となってくれた。

  • 一体何からくる熱意でそんな偉業を達成したのかと思うほどの伝記
  • 産業革命で悲劇的な状況に置かれた女工を哀れんだノンフィクション
  • グロテスクな内観の発露を現代美術を盾に堂々開陳した画集

そんな本たちを読むことで、私は少しずつ自己や世界との距離の保ち方を覚えていったのだ。

「夢も希望もない」無気力から目をそらすために

読書は、人生を諦めたくなるほどの無気力から目をそらすことに役立つ。
周囲の人たちからのプレッシャーや格差社会が見せる現実と向き合うとき、バカ真面目に対峙していては身がもたない。

そんなとき、自分と世界の間にワンクッションおいてくれるのが本だ。
現実世界との折り合いのつけ方は誰も教えてくれないので、それならばいっそのこと本の世界に逃げ込んでしまえばいい。

読書は、いつでも誰に対しても余興を提供してくれる。

感情の対象を指定されることへの許せなさ

「あなたは"それ"に対して怒るなら、もっと他の"これ"に対して怒ったほうがいい」
感情のコントロールを手ほどきするように見せかけ、感情の価値を品定めし私以外の価値観の支配下に置こうとする誘導は無視できない。

私が許せないと怒っているのを見た他人が、怒りの対象となる事物とそれに注がれるに値する感情のリソースを見積もる。
私の感情は他の誰にも利用されてはならない不可侵の領域であり、他人により操作されることは許されない。

ここ数日、「温泉むすめ」が炎上している。
「温泉むすめ」についての話題の中で、ろくでなし子氏のこんな言及を見かけた。

無視すればいい創作物(=温泉むすめ)より、(他の)深刻な女性差別(アート活動で女性が受けた不当な求刑)に抗議しないかと呼びかけているのだ。

私はこのろくでなし子氏の呼びかけを、炎上に対して視野を広げるよう促し、レイヤーを別にした観点からの議論へ発展させるコメントだと感じた。それと同時に、感情の対象を指定する領域に踏み込みかねない危うさを感じ少し警戒した。

怒りをはじめとする感情の発散と議論活動は区別して認識するべきだ。しかし議論への熱意の根源となるのは、個々人の抱く感情であろう。
確かに、感情にとらわれていると建設的な呼びかけを被害者意識を伴う強要と誤解してしまうかもしれない。

感情の対象を指定されることへの許せなさを感じているからこそ、冷静さを忘れ建設的な呼びかけを見逃さないようにしたい。

はてなブログのトップページがよくなった

はてなブログのトップページよくなった!
トピックごとにタブができて、ジャンル別に記事を探しやすくなってる°˖☆◝(⁰▿⁰)◜☆˖°

どんなクラスタはてなブログに生息しているのか偵察できるのが一番いい(笑)
はてなのサービス利用者といえば技術者のイメージがありました。でもトピックの並び順を見るに、ライフスタイル系のブロガーさんが増えてきているのかな?

実は、以前「はてなブロガーに10の質問」答えてみたを書いたとき、運営に対してボロクソ文句を書き散らしたことがありました。
はてなブログのトップページがイマイチでおもしろいブログが発掘できないぞと。

あのあと、ちょっと反省してました。。。
というのも、文句だけいっちょ前に垂れてるくせに努力を怠っていたからです。自分ではてなブックマーク巡回したり、はてなブログの公式Twitterがシェアしてる記事に飛んだりetc...

ボロクソ言ってすみませんでした。そしてありがとうございます!
トップページのリニューアルに甘えず、さらに独自におもしろいブログをサーチしまくります。

というかここのところ、2014年頃に注目されていたブログをおさらいして興奮しとります(笑)
いくら時間があっても読み切れない……

もしトップページのトピックスの分類に要望が出せるなら、「オピニオン(あるいは物申す)」「炎上」「ネットバトル」のどれかが追加されて欲しいなぁ₍₍ο(*⸝⸝˃ ᵕ ˂⸝⸝*)ο₎₎ゎ‹ゎ‹

Yesterday卍リベンジャーズ

今週のお題「秋の歌」

 

今日、初雪が降った。夕方からちらちら降り始めて、砂利道に1cmくらい積もった。そのまま溶けないで夜になったけど、おそらく明日の朝もまだ残っていると思う。

 

冬が来る前に秋の色がまだ残っている。あと1か月もすれば辺り一面、真っ白な雪に覆いつくされる。そういう冬の勢いに抵抗しているみたいに秋の残り滓が道路の脇だとかに吹き溜まっている。

 

インスタに上げたくなるような鮮やかなモミジやイチョウの葉っぱはここいらでは見られない。茶色くてガサガサした、剥がれた瘡蓋みたいな葉っぱがいくつもいくつも道端に掃き寄せられているだけだ。

 

***

 

高校の通学路の途中によく整備された遊歩道があった。

 

チョコワを食べた後の牛乳のようなレンガ色のチップが敷き詰められていて、遊歩道ができたばかりの頃はもう少しふかふかとしていたのにと下宿のおばさんが教えてくれた。

 

その頃といえば音楽でBeatlesのYesterdayを習ったばかりだったから、学校の帰り道に自然と頭の中でフレーズが再生された。単語なんかも高校生が脳内歌唱できるくらいの易しいレベルだったから、何度も何度もリピート再生しながら帰路を進んだ。

 

www.youtube.com

 

テスト期間で部活が休みのときなんかまだ日の出ているうちに帰れるから、これみよがしにぶらぶらとレンガ色の遊歩道をあえて徒歩で通るためにチャリ通しなかったりした。

(遊歩道のわりに街灯が少なくて陰気な感じがしていたので、日が沈んだ後そこを通るならばチャリで爆走する必要があったのだ)

 

***

 

シーズンなんてないような競技の運動部だったけど、なんとなく目標にする大会もしばらくないし中だるみしたような張り合いのないままテスト休みに突入した。

期末とか中間はとりあえず赤点を逃れられそうなくらいはいけるからいいとして。模試ってなるとうまく点がとれなくて志望校判定もこんなんでいいのかなって、でもまだガリガリやる時期じゃないよねって思う。

夏とか?学祭の頃は同じブロックになった先輩を好きになってキャーキャーやってたけど、後から彼女がいるってわかってからはしばらく好きな人がいない。

 

夏が完全燃焼しないまんま秋になっちゃって、メンヘラみたいになってる。

何に対しても身が入らないっていうか、かったるい感じ。

そのくせやたらと甘いものばっかり食べたくなって、でも太るのもやだし・・・

 

***

 

脳内で再生していて、聴いていて、気持ちが上向きになる曲では決してないのに繰り返し繰り返し唱えてしまう。

こういうときは無理にテンション上げようとするより、思いっきりそういうメランコリックで感傷的な世界に浸るのがいい。

 

秋に口ずさむのは、こういう西洋の男が失恋してメソメソとタイムリープしたいよおと嘆いている歌が実にいい。

 

小川洋子「中国野菜の育て方」小説感想

小川洋子の短編小説集『まぶた』をちょこちょこと読み進めています。

まぶた(新潮文庫)

ぺちゃくちゃとあらすじと感想を寄り道しながら綴った文章を先日投稿しました。

horaanablog.hatenablog.com

 

続く2作目として収録されているのが「中国野菜の育て方」。

 

あるとき事象Aと事象Bという出来事が起こったとします。ひとつひとつの事象は独立していて関係ないはずなのに、無意識に関連付けて捉えてしまうことはありませんか?

"そのように関連付けて一種のストーリーを生成することで、かえってトータルの不安感が増してしまう"

という現象を、外から観察するのにうってつけの題材だと思いました。

 

小説を読んで陰謀論に対する免疫をつけよう!

独立した事象同士をむやみに関連付けてしまう例ですが、近頃の話題でいうならお気付きの通り「陰謀論」です。

アメリカ大統領選、パンデミック生活様式の変容、医療の発達、政治経済の動き・・・

勿論、政治経済は世の中の様々な事象を飲みこんで動いているので、事象同士に全く関係がないわけではありません。

 

しかし陰謀論に即して世界を捉えることを試みると、「え?そことそこを繋げちゃうの?」というように斬新な回路の繋げ方がなされていることに気付きます。

conspiracy theory(陰謀論)を図で示すとピンクのユニコーンが出現していることに笑いましたが、渦中にいるとピンクのユニコーンの呪縛から簡単には逃れられないようです。

 

「親(あるいは妻や夫)が陰謀論者になってしまいました」

というTwitterアカウントも見かけるようになりました。生活に支障をきたす段階まで陰謀論にのめり込んでしまい家庭問題まで発展してしまったというのです。

 

私の陰謀論に対する立場としては、エンターテイメントの域を出ない陰謀論や、逆にガチガチの研究としての陰謀論であれば、楽しんだり味わったり果てしなく追及してもいいのではないかと思っています。

問題となるのは、自己でコントロールできない状態になるまで陰謀論に振り回されたり、周囲との関係が悪化したりしてしまったその後です。

 

ちなみに私はどちらかというと陰謀論者寄りのふしがある方といえます。リアルでは陰謀論関係の話をしない、ネットでも発信行動はとらずに興味深いツイートやブログ記事を見るだけ。だけど心の奥底では陰謀論とされているものがもしかしたら現実かもしれないという疑いを捨てきれない状態です。

隠れ陰謀論者として潜伏しているタイプですが、こういうタイプこそなにかの拍子に過激化する恐れがあります。ある意味では危険要注意観察対象人物かもしれません・・・

 

カレンダーにある見知らぬ印と中国の珍しい野菜の種とわたし

ある朝、寝室のカレンダーをめくると「わたし」は覚えがない丸印を見つけます。黒いサインペンで丸がしてある十二日は記念日でもないし予定の心当たりもありません。

夫に尋ねても「さあ……」「僕は知らない」。

 

夫は「わたし」に無意識で書いたんじゃないのと返答し、気にすることないよとたしなめます。

 

一方「わたし」は、カレンダーの印に意味があるに違いないという思考からどうしても抜け出せません。

「いいえ。これは無意識に書いたような丸じゃないわ。初めと終わりがきちんとくっついているし、サインペンの太さが一定している。ゆっくり丁寧に書いた丸よ」

コナン君でしょうか。いや、まるで榊マリコさんが乗り移ったかのような、科捜研も真っ青!な鑑定です。

 

しまいに「わたし」は、誰かがこっそり寝室に忍び込んでまでカレンダーの日付を丸で囲んだとまで言い出すのです。

夫は、そこまでして何のために印をつけるのかと「わたし」に尋ねます。「わたし」の思考はすでに不安や疑いの最高潮に達していて、

「人目を盗むくらいだから、よくない印に決まっているわ。何かの警告とか。おまじないとか、呪いとか、……」

 

はい、出ましたー!「よくない印に決まっているわ」!!!

(根拠はないけどとにかく)よくないことが起こるに決まっている!そうであるに違いない!!!

 

「わたし」の優秀だったところは、カレンダーの丸印の日付である十二日エックスデー当日まで、カレンダーが目に入ってもそれを無視するようにした点です。夫婦の話題にのぼることもなかった。

 

し・か・し

 

運命の十二日木曜日(十三日の金曜日のニアミス・・・)。家に見覚えのないおばあさんが尋ねてきます。彼女はパン工場の裏で農業をやっていて、自転車いっぱいに詰め込んだりくくり付けたりして積み込んだ野菜を売りに歩いているといいます。

「わたし」は、野菜は間に合っているからと購入の意思がないことを表明していました。しかし、おばあさんとの色々のやりとりのうちに、どうしてだか野菜を買ってしまうのです。

 

このままこの人を帰すわけにはいかない、という得体のしれない胸騒ぎがしたのだった。たぶん、その日が十二日だったことに関係していたのだと思う。

「わたし」は、こう回想しています。

 

こうしておばあさんから野菜を購入したサービスで受け取ったのが、中国の珍しい野菜の種が混ざっているというビニール袋入りの土。

「わたし」は、おばあさんに言われたとおり日に当たらない方法で中国の野菜を育てはじめます。

 

中国の野菜は大きくなっていくものの、あまりの不気味さから最終的に、「わたし」はおばあさんに再度育て方を訪ねてみることに決めます。

 

陰謀論に陥った人々が俗称や仲間うちだけで通じる言葉を使いだすキッカケとは

「中国野菜の育て方」という短編小説で最もおもしろいと感じた点は、主人公の「わたし」がある時点を境に中国の野菜のことを急に「中国野菜」と呼称し始めるところです。

 

それはもう笑えるくらいの転換であります。

初めて中国の野菜の種がやってきた晩、夫に説明する時点ではまだ「中国の野菜」と呼んでいました。

一週間と少し経ったあたりで、中国の野菜の成長スピードが加速したような描写があります。この時点でも主人公の「わたし」はまだ、「中国の野菜」と呼び、それを「中国の野菜」として認識していることを窺わせます。

 

それが一転して突然「中国野菜」と呼び捨てになる時点が訪れます。

呼び捨てというのもなんだかおかしいですが、私にはイメージとしてしっくりくる言葉が他に見つかりません。

 

その転機はハッキリしています。

ある夜中、「わたし」が何の前触れもなく目を覚ましたとき、部屋のちょっとした異常に気付きます。それは言葉では説明しがたい些細な変化でした。

「微妙なものが神経をざらっと撫でたような」感覚を確かめているうちに、そのような異様な感覚をもたらす正体に「わたし」は気付きます。

 

この小説を読む人には絶対に注目してほしいポイントです。

このブログの文章では魅力を10%も伝えきれていないので、ぜひ原典の小説をあたってそのおもしろさを味わっていただきたいと強く主張しておきます。

 

その、ざらりとした感触の元はすぐに見つかった。水槽の中国野菜だ。

 

日に当たらないように育てるようおばあさんから言われていたため、水槽と蓋を使っていました。その中で成長中の「中国野菜」が違和感の正体だというのです。

 

まるで、犯人はお前だ!!!と言わんばかりの「中国野菜」呼び。

 

厳密に確認すると、このあたりではまだ「中国の野菜」という呼び方も併用されています。

 

月が変わってカレンダーをめくるころにはもう、「中国野菜」呼びですっかり定着です。

 

・・・いえ、厳密に確認すると夫との会話の中ではまだ「中国の野菜」と一応は敬称(?)をつけていました。

ですが、誰にも聞かせることのない「わたし」の心の声、モノローグ部分では「中国野菜」扱いです。

「わたし」と中国の野菜との間に、見えない壁ができてしまったかのようです。

 

このことに、陰謀論者が「ワクチン」のことを「枠」と呼びだす現象との類似性があると感じます。

「枠」・・・どことなくぶっきらぼうで乱暴な響きがあるように思えませんか?

今にも「おい、枠!」とでもいうように、ワクチンを呼び捨てにして粗末に扱い始めそうな雰囲気を感じてならないのです。

 

小説の中で「わたし」は、違和感の正体こそコイツだ!と突き止めた瞬間に「中国野菜」呼びを開始します。

SNS等で見られる「枠」呼びについては、周囲の影響もあるでしょうから一概には言えませんが、コイツは怪しい!という一線を引いたぞという主張であるように受け取れます。

バリアとして線引きをしたぞという表明、敵意を認め宣戦布告したものとしての呼び捨てです。

 

アカウントがBANされることを避ける目的で、隠語として「枠」呼びしている意図もあるでしょう。

しかし、隠しきれていないのになぜ頑なに「枠」「珍頃」などという蔑称を用いるかの理由がここにあります。

陰謀論者とされる人々が「枠」呼びをするのは、対象を敵対視した宣言をすると同時に、見えない壁を築き距離を広げたことの意思表明でもあるのです。

 

見えない壁は、陰謀論者と非陰謀論者の分断にも繋がります。

 

その後談。あんなに気になっていたカレンダーの丸印のその後は?

カレンダーに見知らぬ印を見つけたことがきっかけで始まった物語。

主人公の「わたし」は、

十二日の黒丸と、おばあさんと、中国の野菜の間には、きっと関係があると思うの。

という疑念を捨てきれません。

そのため、夫からそんな野菜捨てたらどうだと促されても手放せず、おばあさんに詳しく尋ねることを選びます。

 

エンディング部分で「わたし」からはすっかりカレンダーの丸のことなど抜け落ちているようです。おばあさんを訪ねてみて彼女にすがりたいと思いながらもどうしようもできず、ただじっとしている「わたし」の姿があります。

 

カレンダーの謎も、おばあさんの謎も、中国の野菜の謎も、なに一つわからないままなのでした。

 

関係ないはずの出来事同士を結び付けて考えているうちに、むくむくと不安や疑いの念が膨張していく一連の流れを追うに興味深いストーリでした。

直接の危害を与えてきたわけではないのに、どことない怪しさから「中国野菜」呼びをするようになる主人公の変化を追うことで、より一層物語としてのおもしろさを味わうことができました。

 

今後、陰謀論に陥りやすいパーソナリティ研究や、陰謀論から解放するアプローチに関する研究が活発になるのではないかと予測します。

そんなとき、この「中国野菜の育て方」という小説が何かの鍵の一つになるのではと思っています。

小川洋子「飛行機で眠るのは難しい」小説感想

作家の小川洋子さんが褒章を受章されました。

 

今回、小川洋子さんが選ばれたのは紫綬褒章(しじゅほうしょう)といって、

  • 科学技術分野で発明とか発見した人
  • 学術及びスポーツ・芸術文化分野で優れた業績を挙げた人

に贈られるものとのこと。

 

対象分野がずいぶんと幅広いんですね。

スポーツから文化まで一緒くたに分類されるこの感じ…「ザ・文部科学省」という印象です。

 

で、紫綬褒章というだけあってほんとに紫色のリボンのメダル的なものが授与されるみたいです。

www8.cao.go.jp

ググっていたら、内閣のHPで画像が見られました。

 

そんなタイムリーなニュースもあり、小川洋子さんの短編集が家にあったことを思い出したのです。

新潮文庫の『まぶた』。

まぶた(新潮文庫)

 

 

褒章受章の報道では、小川洋子さんの小説のルーツが『アンネの日記』であると触れられていました。

アンネの日記』のオマージュと位置づけられるほど強く関連するのが『密やかな結晶』という作品だそうで、そちらを読んでみたいと思ったのですが、まずは家にある作品を読んでみようということで『まぶた』を手に取りました。

 

『まぶた』はまず2001年に単行本として出版され、2004年に文庫化。

つまり、代表作ともいえる『博士の愛した数式』よりも昔に出版された作品ということになります。(『博士の~』が2003年)

 

『まぶた』は8篇の作品から成りますが、冒頭に収録されているのが「飛行機で眠るのは難しい」。

なんでもこの作品は高校の現代文の教科書にも載っているそうです。授業で採用されている学校はラッキーですね。

 

コンソメスープを貰うまでは、うかうか眠れやしない

さて、「飛行機で眠るのは難しい」というタイトルを聞いて何を思いますでしょうか。

あぁ、コンソメスープを貰いたいから飛行機で眠らないようにしている人の物語かな。

私がまず思いつくのはこうです。

とても食い意地が張っていますね。いや、スープだからギリギリ「食い意地」ではないか。許して。

 

そもそも、飛行機で眠りたいですかね?

離陸する前のCAさんの非常設備の説明は見逃せないし、機内ラジオも聴かなきゃだし、ANAを使った日には翼の王国を隅々まで読まないとならない。窓の外をそわそわ確認してみたり、お手洗いに行くにはシートベルト着用サインが消えている間にタイミングを見計らって…

(なんと時代の流れか、翼の王国は電子版になり、機内ラジオは終了または縮小しているらしい)

 

そりゃあ「飛行機で眠るのは難しい」よなぁ。・・・ってそんな話ではないらしいです。

 

眠れないからって、他人を、道連れに、するな~!・・・ん?何やら様子がおかしい・・・

「飛行機で眠るのは難しい。そう思いませんか、お嬢さん?」

国際線の深夜便の機内で、隣の席に座り合わせた見知らぬ乗客から突然話しかけられたらどうでしょう。

しかも、謎の「お嬢さん」呼び。

主人公の「わたし」も、初めは嫌な予感がしました。

しかも、フライトの二週間も前から彼と関係がギクシャクしていて、電話もしないでウィーンへ旅立ってしまったという心残りもある。

 

機内は照明が消され、「眠る時間やで」とスチュワーデスが窓のシェードを順に下ろしているところ。

隣の男は自分語りを続ける。

 

き、気まずすぎる…

 

かと思いきや。

 

「わたし」は、隣の男に相槌を打つ自分が、さほど不愉快を感じていないことに気付き、そして戸惑います。

隣の男は「飛行機の眠り」に異様なこだわりを見せ、それを「わたし」に語りかけます。そして、「眠りの物語」と称して奇妙な話が始まるのです。

なんだか寝る前に読み聞かせをしてもらう小さな子どものよう。

 

飛行機で隣り合った老女が自分の腕の中で死んだ

男の始めた奇妙な話というのは紛れもない「物語」でした。

 

昔話、それも自分の腕の中で人が死んだという強烈なエピソードを語り始めるとき、自分だったらどうやって話を組み立て、伝えるだろうかと考えました。

「人が死んだのを間近で見たことがある。しかも、飛行機で隣に座っただけのお婆さんが突然発作を起こし、自分の腕の中で死んでいった」

実際に体験したわけではないので語れるはずもないという前提を抜きにしても。

なんだか当事者性が伝わってこないというか、確かに出来事を並び立てているはずなのに、内容のわりに強烈さが感じられない説明です。

 

男の語りはこう始まります。

十五年近く前です。僕は父の元で、古書の売買の仕事を勉強中でした。

当時の自分の立場を明かしながら、いつの時点でのエピソードであるかを前置きしています。

昔々あるところに…から始まる物語っぽさがあります。

このように語り始めることからも、男は物語として老女のエピソードを「わたし」に話しかけていたのだと受け取れます。

 

逆さまからのぞいた双眼鏡のレンズで観察した老女

インパクトのある出来事に遭遇したとき、かえってメインの事象に関係なさそうな些細なことの方をよく覚えているものです。

 

男がしきりに語ったのは、老女がいかに小柄であったかということ。

十二歳の骨格を老女の皮膚で覆ったかのようでした。

 

病的な要素は窺えないものの、奇妙なまでの小柄さが記憶にあるよう。

老女が触れるたびに、ナイフやフォーク、紙ナプキンといったものが彼女にふさわしいサイズに縮小したのだったと男は語ります。

 

双眼鏡を逆さまからのぞいているような気分でした。

ミニチュアの世界に迷い込んでしまったかのような感覚を語りたかったのでしょうか。

 

普通、といってはなんですが、対象の小ささを主張したいとき、対象に対して周囲のものが明らかに大きすぎた、という描写をするものではないかと思うのです。

老女のか細い指に対してナイフもフォークもはるかに重厚で、まるで慣れない工具を扱っているかのようだった。

あるいは、紙ナプキンで口元を覆っているはずが新聞紙で顔を隠しているようだった、といったように。

 

「双眼鏡を逆さまからのぞいているような」という比喩からは、老女と老女がまとう空気感のようなものの独特さが、ことさら伝わってくるように思います。

 

物語の嘘

老女は三十年文通していた日本人のペンフレンドの死をきっかけに、お墓参りのためウィーンから日本へ訪れたといいます。

その旅の帰りの機内での出来事が、男の物語の内容です。

 

老女は旅をとおして、ペンフレンド相手が手紙に書いていたことの半分以上も嘘だったと分かります。

それでも老女が男に対して語ったのは、私は三十年間ペンフレンドに恋をしていて、その真実は変わらないということ。ペンフレンドとの間に真実があったのだから構わないということ。

 

飛行機の中で老女が死んでいった後、男はウィーンにある老女が営んでいたはずの布地屋を訪れます。

機内で老女は布地屋が繁盛している様子を語っていました。そのときから男は薄々違和感を覚えていたのですが…

いざ実際に布地屋を訪れてみると、老女が話していた内容とはすっかりかけ離れたお店の姿があったのでした。

と、ここにも嘘があります。

 

男は嘘を見届けつつ店のウインドー下に花束をたむけます。

その場で男は老女の死を悲しみましたというところで物語は終了します。

 

夢を見る前にも物語が必要だ

「わたし」は男の物語を聞き終え、おやすみなさいの挨拶を交わし、ある思いが浮かびます。

ウィーンに着いたら、喧嘩以来連絡を取り合っていなかった恋人に一番に電話しよう。

そう気持ちを整理して、男の語った物語に登場したヤモリやキャンディーの缶、映画俳優の写真がまぶたの裏の暗闇に映るのを味わいます。

そして手の中に小さな死の塊があるのを感じ、その塊が眠りへ導く案内役の役目を果たしていることに気付くのでした。

 

・・・という短編小説が「飛行機で眠るのは難しい」という物語だったのでした。チャンチャン。

 

人間の脳は睡眠中に記憶を整理しているといいますが、人間というものは睡眠時に夢を見る前にも物語を必要としているのではないかと、ふと思いました。

 

物語なので誇張もあれば嘘もあります。老女のペンフレンド相手からの手紙にも嘘があったし、老女の話にも嘘があった。もしかすると男の物語にも嘘があったかもしれない。

 

そもそも、飛行機の中ってエンジンの音はするし耳はつまるし、隣の人と会話、できなくないですか?

 

元も子もないようなことを言ってしまいましたが、物語の真実がどうであれ、何らかの核となるものがあったから「わたし」は恋人に電話をしようと心情の変化が起きたわけだし、嘘も方便的な効用が発揮されたのでしょう。

 

いつだって「眠りの物語」を脳内本棚に並べておく、そんな生き方で世の中をかわしていければ

先行きがわからない世の中に不安があると、睡眠に影響してくるものです。

眠りにつけたとしても、もしかすると悪夢を見てしまうかもしれません。

それならばせめて眠る前くらいは、自分にとって心落ち着く物語を堪能したいですよね。

 

「飛行機で眠るのは難しい」に登場した「眠りの物語」は、奇妙で、明るい内容ではないし、ハッピーエンドかと言われたら微妙、でも不思議とすっと眠りへ導いてくれる。

物語が終わった後、手の中に何か小さなものが残るような「眠りの物語」があれば。

 

いくつかの「眠りの物語」を脳内本棚に持っておき、辛かった1日もすっと終えることができればいいなと思います。

 

主張のない叫びとSNSの魔物

今週のお題「叫びたい!」

 

叫びたいこと。

隣の部屋の住人がたてる物音をいい加減にしてほしい。

「うるさーーーい!!!」

これ下手したら自分の叫び声の方が騒音になるのでは。

たぶんデシベル的にも上回ってしまうだろう。

 

そもそも自分は本心から「うるさい」と叫びたいと感じているのだろうか。

「うるさい」というのは相手に通したい主張ではない。

「うるさい。だから、静かにしてくれ」

つまり

「静かにしろ」という要求を相手に呑んでほしい。

叫びと主張は、似ているようで違う。

 

※ ※ ※

 

遠くにいる、自分の主張を聞いてくれるかどうかもわからない相手に叫びたくなることがある。

それも、人生で一生関わらないであろう相手に叫びたくなる。

きっとリアルで対面したら何も言わない。

後になってからSNSで愚痴るだけ。

 

そう思うと直接相手に言ってやりたいことというものは、そうそうない。

 

※ ※ ※

 

オーディエンスがいる。

独り言のつもりで発した言葉が拡声器を通したように大きな主張に化ける。

通したい主張なんて初めはなかったのに、相手に届くころには禍々しい叫びに変容している。

相手に何かを要求したり制限したりする呪いになっている。

 

※ ※ ※

 

言いたくないことを言わされていないか。

叫ぶ必要もないことを叫ぶよう踊らされてはいないか。

誰かに仕向けられていないか?

 

※ ※ ※

 

「けしからん」「○○すべき」「これどうなの」

怒りのように思える叫びの本質とは、ちょっとだけ怖かったり不安だったり、誰かが寄り添えばすぐに消失する弱音に過ぎなかったりする。

特段主張のない叫びを喰っては吐き、SNSは膨張を続けている。