ほらあなブログ

ちょっと気になることを調べたり考えたりした記録

正義を貫くことと誠実であることの違い

モンスタークレーマーなんて言葉が世間で使われるようになる前から薄々気付いていたことがある。
私の父はクレーマー気質の持ち主だ。
モンスタークレーマーどころかクレームという言葉すら浸透していなかったかもしれない。
子供だった私達を守るため苦情を申し立てに行政機関に出向いていった。
父が他人に対して要求する水準が、特別高いわけではないのだと思う。
下手すりゃ田舎だからとなあなあにされそうな事象に異議を唱えた。
それがどんなに勇気のいることか、私は大人になってから身を持って知ることになった。知ったときには後の祭りで、私は物を言うことに関して非常に不器用なまま社会に出ていた。主張するタイミングを逃し、かと思えばでしゃばるのにふさわしくない状況で意見を述べる、扱いにくい人になり果てていた。


正義を貫けば世界を救うヒーローになれるという幻想を捨てられずにいた。
ヒーローが正義を主張するのは物語の中でしか許されないことを知った。
アンパンマンは毎回バイキンマンをやっつけるが、彼らは共存している。正義とは悪を倒すものではなく、悪の存在の対極として浮かび上がるまぼろしなのだろう。悪とされるものを認めうまい具合に共存する仕組みを探るのが社会だと気づいた。

まるで規則は従えば従うほど損を被るように設計されているようだった。空気を読んで臨機応変に順応しつつ自分の持ち場を死守することがこの世界の攻略法だとわかった。
けれど私はそれができない遺伝子を継いだ。インターンで真摯な姿勢がいいと評価されても、実務では真摯であろうとすればするほど身動きが取れなくなった。

広告で「バカがつくほど真面目です」というフレーズがあったような気がする。バカ真面目とかバカ正直というのは、結局のところバカをバカと言っているにすぎない。そんなふうにしてると生きづらいですよと教えてくれていたのに私にはわからなかった。

だけどお父さん、正義感も真摯な姿勢も真面目さも正直でいるのも私が私に対して誠実であるために全部必要な要素だと気付いたよ。自分なりの美学をないがしろにしていると土台が完成しなかった。土台が不安定なままでいると責任転嫁することでしか生きられなくなっていた。時代のせいにして環境のせいにして自分の中身をどんどん腐らせてしまった。

正しいか間違っているかは問題ではない。答えのないものに自分なりの解を持ち得ておく。こつこつと集めてきたのに全部捨ててしまった。歪んだり揺らいだりする中で指針になるものが何ひとつない。今からでもまた見つけられるだろうか。